【ブログ更新99回目】
● 小説を読まなくなった理由
5年前にブログを始めた頃、よくネタにして書いていた~最近小説を読んでいないのよね~という下り。
たしか、当時はわたしの母~夫の父~夫の母と立て続けに亡くなって、親が全員他界し、葬儀~家じまいなど諸々に追われていた。その数年は何が何だかわからないぐらいの忙しさ。とても小説を読む時間や心の余裕はなかった。
又吉直樹氏、羽田圭介氏の芥川賞作品も、仕事がてらに書店で手に取って眺めたに過ぎなかった。
又吉直樹氏の純文学はちょっと馴染めない感じがした。わたし自身、これまで純文学に親しんでこなかったが、それが読み手としての力の無さを痛感して、気持ちにダメージを与えた。
この時、川端康成氏や谷崎潤一郎氏の世界を熟知している又吉直樹氏にとてつもなく、エレガントな雰囲気を感じたのだ。
同じ時代に生きていて、又吉氏の卓越した読書観がこういった形で花開いたのには、時代と並行して教養や生き方は流れているのだとさらに強く思い直したのだ。
ああ~、出遅れちゃったな・笑
一方の羽田圭介氏の作品は・・・イケた!なぜならそれは、羽田氏の作品を書く時に思い描く読み手の問題だった。現在に生きる、今の人の習性を見事に表現していたのだ。
羽田氏のある動画を観た時にハッと!させれた発言があった。それは「芥川賞だけでなく、小説を読まない人達へ向けて書いた」という。この点が羽田氏の持つ誰とも違う策略的エレガンスな部分だ。ある意味、上品とはいいがたいが魅力的だ。
書く前の段階から発想が違う。まあ、いっちゃえば、狙って書いたのだろう。
しかし、わたしはこういった独自目線の話が聴けてとても有意義な時間だった。そしてこう思った。
そうか。わたしも小説を読まない類だったから、羽田氏の戦略に見事にヤラれてしまったのだなと。
こうした、作家のもつ独特な発想がわたしが思うエレガンスなのだ。また、小説は他人に興味がないと書けないものだと思ってきた。
わたしは自分ごとでいっぱいだ。到底小説を書くという場面は生まれないだろうと。それでも欲の扉は少しづつ開かれてきた。
常に、わたしは仕事が忙しく、他人の人生フィクションを追うほど時間が(暇)がなかった。(小説を読まなかった言い訳)
わたし自身が50代ですでに、自分の病気の発病(克服)~夫の闘病(6度の手術と入退院)~子どもの独立~更年期の終焉~親達の介護~看取り~葬儀~家・墓じまい、などを立て続けに経験し、それなりに面白く、厳しく、経済的にもひっ迫した、苦しい人生を送ってきた。
ことさら小説という物語が必要なかったのだ。
~事実は小説より奇なり~だと。
● 読み手から書き手への話
自分の持つ体験や経験が小説のネタにこそなれ、独自の発想を生み出せるかはまったくの別ものだ。
わたしが考える小説論のひとつに「すべての小説に存在意義がある」という考え方を持っている。
しかし、わたしは自分が持つ経験や体験を今ありのままで書いたところで、ありふれた書き方でしか書けないだろうと踏んでいる。自己満足はつまらない。
それでも、70歳で小説家としてデビューという細やかな夢を持っているから、この数年は、まず短編小説を筆慣らしに書いているのだ。
そして、エレガンスの話だが、自分のどの部分を強調させればいいのかがわかったら、そこを強めて嘘偽りなく書けばエレガンス漂う独自の作風となる。強調できるエレガンスな分野が見つかったら、勢いつけて長編小説を書き出すだろう。
● 良く読む女流作家3人のエレガンス
代表作ではなく、わたしが好んで読み返す3冊の書籍はAmazonで載せた。
岸 恵子氏・・・インターナショナルで世界情勢に強いジャーナリスト気質。
阿川佐和子氏・・・多彩なメディアに生きることを肩の力を抜いて受け入れられる才能。
宮部みゆき氏・・・東京人の粋と、地味におしゃれで美人な雰囲気。
● 出版界が厳しい今だからこそのエレガンスな独自の発想を持とう
今回は、小説という題材で、読み手と書き手のことを少しだけ深掘りしてみた。
現在、小説というマスは出版業界では年々縮小傾向にある。だから、各出版社は総出で、小説(原作)→コミック→映画→ゲームと、こんな風に売り方の拡大が可能な作品を求めている。
また、読み手よりも書き手が増え続けているとも聞く。
いつの時代も、他人の経験や体験から見たこともない景色を見に行けるのが小説で、書き手は読み手を最高に楽しませることに全精力を傾ける。
そして読み手同様に書き手も、物語の最後が読みたいのだと。
書いてみなきゃわからない。そこが小説の醍醐味。
「残り香の 暑さ感じる ノベルかな」 清流
今の読書に飽きるようなら、残り香を楽しむようにストーリ―を編み直してみましょう。読後の熱さを惜しみつつその小説を愛でられてこそエレガントなのではないでしょうか。
残り香を楽しむ・・・いいですね♪