【ブログ更新115回】
● ブログは毎日発信するほうが、いろいろ叶いやすい
5年前のこと。
ブログを同時期に始めた友人との会話で。
「ブログって毎日書くもん?」
わたしはこう答えた「別にルールや規則があるわけじゃないよ」と。「わたしは1日おきにっ決めているけどね」
「じゃあ、毎日じゃなくったっていいのね?!」・・・。
そんな彼女、早々にブログを離脱してしまった。どうしたのか聞いてみると、始めたばかりの熱の高さを持ち続けられなくなったと。
面倒くさいと思って、自分の可愛いブログを開くことすらしなくなっちゃった。「きっと日記とかも続かないのは飽きっぽい性格だからじゃない?」とか言って辞めていった。
どんなことでも続ける力って大切。ご飯の次ぐらいにブログ投稿が好きじゃないと続かないかも。
というわたしは、唯一の特技だと思っている「集中力」の力を存分に発揮して、ずっと書き続けている。
一定の熱を保ちながら、日々ネタの増強に余念がない・笑
そして、毎日書き続ける効用は大きい。文章にすることで、頭の中で考えていることを具現化し、たまにダメ出しもして、クリーンな自分でいられる生き方指南でもあるのがブログの存在だ。
また、文章になるまでの過程を存分に楽しんでいる。しかも無料で。この無料というコスパ感も大事な要素だと感じる。
毎日書きたくなる仕掛けを自分で作り出すまでは、たとえ遊びであっても修行と一緒だといえるのではないだろうか。
仕掛けを編み出す、それが独自性となる。
● 日記とブログ・似ているようで非なるもの
さて、どうして、日記をつけるのか、それは、自分を振り返り、頭の中の思考と現実の行動を調整するための防備禄=自分史だと考える。
だから、3年日記、5年日記などのロングな日記が今でも書店では一定のスペースを確保されて売り続けられている。
日記が素晴らしいのは、完全に「個人」の物になっている文章だから。
しかし、その防備禄=自分史を世界中の他人が読めるSNSを使って公開すると、まったく現状が変わってしまう。
まさか、生活の一部始終を投稿するわけじゃないのだから、ある忘れたくない事柄を中心に書くのがブログの目的だ。ただ、人に読ませる、見せるのが第一目的じゃない。
※ ここで重要なのが、「じゃあ、ブログって何を書くの?書いちゃいけないことがあるの?」ってことだ。
それはあるよ。
たとえブログと言えども嘘偽りなく、ノンフィクション(史実)で書かなければ意味がない。
もし、どーしてもキラキラな日常、盛った内容にしたいのであれば、史実ではないと明確に記事内に書くべき。
嘘か本当か、読者を迷わせる内容は自由なブログ発信でもNGなのだ。
● 嘘つきアイドルってあり?
昨日、何気なく観たTVで、「嘘つきアイドル」という別名を持つ女子を発見した。学歴、住むことろ、バイト先、すべて今まで嘘をついて生きてきたそうだ。
これだけでも驚き。その上に何ら悪気なく、実際もかなり可愛いのだろう。好感度高そうな女子だった。
キャラクターでそういう売り出し方をしているかと思いや、それが幼い頃からの「くせ」だと平気でいう。
もう、恥も外聞もない世界に少々うんざりしてTVを切った。
嘘つきさんの話を聞きたい?読みたい?誰だって聞きたくないし、読みたくないだろう。
● 本当の発信にだけ価値は存在するもの
なぜ、こんな話を持ち出したのかというと、「嘘偽りがないかどうか」が発信者になるということの境目だからだ。
自分の書いた文章を発信したら、誰が一番最初に読む?それは、発信者の「自分」だ。
だから誰にも、見せない日記と同レベルで、嘘偽りなく書かないと、自分を欺くことになるのだ。
これが怖い。
一番のファンであり、一番熱心に読んでくれる読者を欺く。そして、これを続けるとどうなるか。
自分のなりたい姿からどんどん、かけ離れて行ってしまう。そして、なりたい自分にはなれない。
似たようなことでは、家庭内の問題(虐待をする、された)事件に繋がるような発信も同じだ。
DVな内容は、読者をつかみやすいかもしれないが、読者に何も与えない。それどころか自分に向けて、ナイフを刺し続けるキラーコンテンツとなる。
デジタルだから消せると思うかもしれないが、自分へ向けた傷はどんどん深くなるのだ。
もうひとつ、明らかなのが、「ブログで好きなことを書きまくって搾取する」要するにサブスク型で課金を利用して、他人の内緒話や悪口を書くなど、こういった場合でも、脆弱な歪みが自分を蝕み、成功路線から外れて行くという現実に気づくべき。
他人のことをあーだ、こーだと書きたくなる気持ちは己の心の中で握りつぶしてしまおう。
言霊の怖さを書き手=発信者はいつも考えるべきだと思うのだ。
私事で恐縮だが、わたしは普段のSNS投稿もブログも、発信といわれる媒体には、語り口をすべて統一している。
悪いことば、下衆なことばは、一切使わない。誰でも読める、見える媒体では、常に同じ表現の仕方で通す。これが、読者を迷わせない、裏切らない方法だ。
それは、時に面白くないだろうが、ことばで人を操ることなどない正常なアカウントでいたいからそうしてきた。
またこうも感じる。
ブログは、常に、読みやすさを考えて、正しく、真っすぐに書くことであって、巧い文章だけを求めて彷徨わない書き方が潔く清々しい。
自分色の有益なブログ発信を丁寧に続けていくことは、結局ところ、何等かの形となって、自分に最も還ってくるのではないかと、思い続けている。