猛暑だとばかり思っていたら、今日の昼から急な雲行き。で、13時過ぎたあたりでぽつぽつと降り始めた。ごろごろと、雷様の応酬が今も続いている。
でも、わたしはまだまだ営業先で仕事中。別に電車が止まらなければ、どんな雨でも平気。
雨好きかもしれない。次の客先へ向かう途中、案の定ひどい豪雨に見舞われた。仕事じゃなければ、傘を閉じて思いっきリ雨に当たりたい。
ひゃっほ~い!とか声を張り上げて水浸しになる。興奮は最高潮だ。ばかみたいなことはできる時にやらなくっちゃ・笑
自然の営みのすごさには、驚きとともに否応なしに謙虚にならざるを得ない気持ちにさせられる。
「雨」「雲」「影」などの自然現象の美しさに感動する毎日だが、そのシンプルさには特に心を奪われる。美しいものそれぞれについて書いてみた。
●「雨」の情景に想う
私にとって雨は、まさに美しいものだ。花や草木はもちろん、道端に転がる石や、連なる家々の屋根さえ、雨は触れるものすべてを美しく変える。
その規則正しい雨音はバッハの調べ?とも思わせるリズムがあり、濡れて嫌だけど情緒を求めて、雨の日の外出には勇んで出かける自分がいる。
●「雲」が美しい理由
雲が美しい理由を挙げようとしてもその掴みどころのなさに唖然としてしまう。
中学の頃に林間学校で登山をした時、雲より上の場所に初めて登った。一緒にいた友達も皆、あまりに動きの早い雲に導かれるようなその場の不思議な雰囲気に飲み込まれ、みんなシーンと寡黙になったことを覚えている。
それにしても、時に心を落ち着かせる穏やかな雲の様子はこの上なく美しく、また不安をかきたてるような不気味な雲も美しいものである。
●「影」が織りなすアート
影は実に芸術的だ。その実在無縁な姿そのものがアートである。「知識があればあるほど、いろいろなものが目に入るようになる」とは中国の孔子の言葉。
それぞれの民族が同じ目や心で見ることはできない。韓国人は影の存在をとても重要視しているという話を聞いたことがある。それは、人生、哲学、美学すべてに影の影響を受けていて、空間を崇拝していると聴いた。
だからか、韓国の住まいの中ががらんとしているのは、人生に不要なものを排除しているのだとも。家も人生も心も空間がなければ埋めることができない。
光と影のように、正に対する副的なその存在は、正副で1セットであり欠かせないものなのだろう。影だけではなく空間もまた存在を際立たせるための「必然」である。適度な影や空間は平穏な清らかさがあり、またアートなのである。
また人間の体にも、進化の中で得たシンプルな構造とその躍動感と美しさに驚嘆する。
●「美しい手」
高校の同級生に手をとても大切にしていた友人がいた。いつもハンドクリームを欠かさず、血管が浮き出るのを嫌がり丁寧なマッサージを施して、手の動きにも注意を払っている彼女の手の表情を見るのがとても好きだった。
顔と同じくらい、手はその人の個性や魅力、そして美しさを映し出すと思う。
友達は手の仕草が見た目に及ぼす影響を、どのくらい深く理解していたのかしら?もし、分かっていたんだとしたらすごい。
●「心身を美しく保つために歩く」こと
なんら目的もなく、ただ歩くために歩く。この楽しみはたやすく手に入れることのできる贅沢だ。
まあ、実際に贅沢とは思っていないが。歩くことは心の旅でもあり、この世界が絶えず変化していることを教えてくれる。
また歩くことで様々な事実や考え方をまっすぐに受け止められる気持ちになることもあり、ある意味歩くことで軌道修正できるのだ。
矛盾したことがらを抱えている時などは、私は率先して歩くことにしている。自分を取り巻く事実と自分の心を受け止めるために歩く。
風に吹かれながら考えることが感受性を高め、洗練された気持ちを取り戻すのにウッテツケなのは間違いない。
● 最後に
美しいと感じる事柄を感じるまま、きままに書いてみた。シンプルなものは、時として面白みに欠けているように見えるかも知れないし、刺激も少ないようにも思う。
しかし実際は、心の求めるところ、誰でも手に入れられて等しく美しかったと感じたり、気持ちが良いと感じられる現象だったりする。
それは特別なことではなく、ありふれた日常に溢れていることでもある。そのシンプルな美しさを見つけ出すことが大人の贅沢な「遊 び」になるのではないだろうか。