【ブログ新規追加285回】
● 節分草の花言葉・・・ 「気品」「光輝「微笑み」「人間嫌い」
今年の節分草を待ち焦がれていた。
あっという間に過ぎ去る2月最終日。
そのはかない姿をある野山で発見できた。
そこは、表の太陽がほとんど射さない薄暗い山道。
わたしがカメラを向けてあーだ、こーだと格闘していると、横からギャラリーさんが、
「どう?きれいに撮れる?」
「ここはダメでしょ。だって、花が全員別の方向を向いちゃってるんだもの」と。
わたしは、すかさず「そうなんですよね。でも、恥じらいを感じる「ここの節分草」が好きなんですよ」と話すと、苦笑いを返された。
そんな話をしていると、通りがかりのギャラリーさんたちが、「ここの節分草はまったく映えないね」と言い、まるで「被写体としての価値だけ」があるかないかの話して通り去って行く。
きれいに撮れるか?よりも、今年もここで「種の保存」を健気に繰り返すこの春告げ草の役割りに感動するわたし。
俗世間の「映え」とか、一瞬で魅力をわしづかみにするショットがそんなに価値があるの?
わたしには、丸一年じっくりと、この薄暗い森で息を繋ぐ節分草のしぶとさには「映え」なんか、まったく適うものではないなと、密かに価値を置き換えてきた。
節分草で有名な「国営昭和記念公園」「都立野川公園」は節分草の咲く2月は満員御礼。
花が華と化しているその場所には、まったくと言っていいほど、日陰や薄明りが射す場所はない。
可哀想なぐらいに、陽の光を浴びてしまい、早々に散り行く。それは、人の手で操作された現象だ。
はかなさをなぜ、待ちわびないのだろう?
そんなに急かさなくても、スプリングエフェメラルは、草花なのに、まるで勤勉で忠実な人のようにに真面目にきちんと咲くのに。
わたしが、見に行った節分草は「都立片倉城跡公園」でひっそり咲いている。
資料先(山Reco)→https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2222888.html
「映え」を望むのは難しいぐらい、ぽつぽつとささやかに咲いている。
しかし、目を凝らしてよ~く見ていると、無数に咲くその花の小さな蕾が見えてくるのだ。
それは、カメラに納められるものではなく、心に納めるものなんだろう。
大事なものは、簡単には目には見えないようだ。