「これさえ」手に入れば、それを核のようにして短編小説を作る事が出来る。書き手である自分を確信させ、嬉しく小躍りさせる「これさえ」の「これ」とは一体何か。
この数年、梅雨入り~梅雨明けまで、いつも短編小説を数本書いている。なぜだか、発表するためではなく、ただただ創作したいからだ。
きっと、体と頭の中の澱が熟成されて、溢れ出る時期なのだろう。それが終わると、待ちに待った夏だ。
これさえのこれは、撮り溜めてきた一枚の写真だったり、古いファッション雑誌のイカしたピンナップの事もある。
物語の核になりうると思えることや場所を探して、街や森林を歩き写真を撮り続けている。
そしてとりあえずその一枚をわたしはPCのファイルに保管する。しかし、だいたいはファイルに保管した事で安心しきって忘れてしまう。
要するに冬眠状態になった短編小説のネタというこれをだ。
積み上げられた古い書籍の中にも古いピンナップが挟み込まれていて、片づけとかひょんな事からその一枚が入った書籍を再びひも解くと、何故だか何も感じない。それどころか、過去の記憶を遡る事すら面倒だ。
ああ・・・もうこれはわたしの求めているこれじゃあない。まるで賞味期限切れの食品みたいだ。せっかくの再会にも感銘などはまったくない。
これさえあればのこれがどんな風に物語の中で変化し、成長できるかが短編小説の生命線であり勝負どころなのだ。
自分の旬を発見し、それをこれに仕立てて書ければ、きっと物書き冥利に尽きるだろう。
これを見つけるのは至難だが、意外に偶然だったりもする。転がる石ころみたいに悩み続ける、苦しくも楽しき充実の時間を過ごしている。
これを掴めず、書き切れなければたとえ梅雨が明けても、物語の終わりを迎える事はわたしの場合はない。
※大変高価な美術史 オリジナリティと反復 から美しいタイトルを拝借いたしました。
●オリジナリティと反復
「仮説こそ 唯一これの 白南風か」 清流
人を楽しませ変えられる文章、それは内なる他者をどう置くかにかかっている気がする。心の梅雨明けを迎えるには、明るい白南風が必要だ。
はア~内なる他者・・・か。いい言葉。使うよ(笑)