【ブログ更新111回】
昨日の某新聞のコラムにこんな記事があった。
このところの読書量の低下が危惧されているという記事。しかも読書量の低下は年代を問わずだということだ。
● 現代は60代でも本を読まなくなった
20代から60代で1ヵ月に紙の本を読むのは「0冊」と答えた人は、平成25年時には28,1%だったのが、同30年には48,8%に増加。約半数の人が「1冊も読まない」という結果だったと。(国立青少年振興機関調査による)
まったく、本を読まないのではなく、本屋にも行かないのだろうか、また、電子書籍やオーディオブックなどの利用者、そのあたりの動向も合わせて調査してほしかった。
今となっては、書店で身銭を切って読みたい本を買う、このこと自体、精神的に贅沢な習慣であり、文化の継承を担う大切な行為なのだ。
わたしの仕事は書店営業だ。書店へ訪問し、担当という人間を相手に自社の書籍を紹介し売る。書籍は事前に配本制度によって、様々な本が店舗クラス別に数字が定められ、取次から搬入される。
少ない数字なら棚に入ってしまい、売れなければポスで落とされて返品されてゆく。そこを、数の調整をして平積みにしてもらうことや、売れ筋作家のフェアを組んでもらうなど、平常の在庫チェックやストックの管理以外にもやることは膨大だ。
で、昨日も感じたのは、今、店頭には第163回芥川賞受賞の2作品が、だいたいどこでもど~んと平積みされている。その中に混じって、今月の売れ筋、例えば村上春樹氏の新刊2冊がこれまたど~んと積まれている状況。
しかし、売れるも売れないも、すべて書店のプロ級の売り場担当のセンス一つだ。本の席は売れる順番がある。このマーケティングの基本を押さえているのがプロなのだ。
しかし、以前も書いたことだか、本は売れないのに、書きたい人は爆発的に増えている。なぜなら、SNS効果で、皆が文章に親しんで、ちょっとしたことから深い内容のことまで文章で表現し始めたからだ。
だから、書きたい人はどこかで己の文章を発表するためにSNSを海遊する海遊魚になっているのだと言われている。
アマチュア小説のサイトカクヨム、noteのような独自のセンスを元にアマチュアから一部のプロ達の作品を集め、企業コラボで作品賞を公募するサイトなど、SNS機能をふんだんに利用して沸きに沸いたサイト運営をされている。
思うに、時代は変われど、心に読書と思索の暇を作るのが、書く前の先決ではないかと。
要するにネットであれ、紙であれ、もっともっと本を読もう!という話だ。もう、秋だしね。
● 文体の基本で悩んだらこれ
さて、ここで、文体の話を。
今まで5年ブログを運営してきているが、ごくたまに質問を受ける。
例えば「SNSで何か書きたいのだけど、です・ます調?だ・である調?ここでつまずいてしまい、なかなか書けない」と、自分らしく書けないもどかしい思いを、先日ちょっとした会話の中で聞いた。
この一見基本的な部分でのつまづき、多くのSNS慣れした人ならば、な~んだ!そんなこと!と思うかもしれないが、とても当人にとっては「一大事」な部分。
で、わたしはその質問にこう答えた。
「どういった内容で誰に向けて書きたいのか?によります」と、お応えした。小さな子どもにでもわかるように書くなら、「だよね」でもいいが、対大人であれば、「ですよね」となる。この違いを見分けながら書くのが基本だ。
わたしはブログ第1回からずっと「常体」(だ・である調)で書いてきた。はじめは気恥ずかしかったが、慣れるもので今ではこの書き方で統一している。
もし、書き方で悩みがあるなら、編集者と呼ばれる人たちの文章に触れるとよい。彼らは文章のプロだ。わたしもお気に入り編集者3人の記事やブログ、書籍をすべて読んでいるが、本当に役立つ発信ばかり。
限られた時間を無駄な発信を読むことに費やすことはできない。それほど編集者の発信は有益であり、主張でもある。
こうした何気ない勉強と、普段から書籍をしっかりと読み込むことで、文体のあれこれに囚われずに書けるようになるものなのだ。
頭で考えるよりも、触れて感じろって・笑
軽~い内容の文章の末尾が「・・・だ」「である」では重い。そういうことが肌でわかるようになるだろう。
要するに軽いしゃべり言葉の延長なら「だよね!」で充分。
● 書き手と文体の関係性がわかった話
文体とはなんだろう・・・ここが自分の頭の中にすっと、浸透するレベルで理解が進んだ時があった。
きっかけは、京都の天王山で頂いたウイスキーを味った同時期に、スコットランドのアイラ島を舞台に書かれたウイスキーと言葉の話という作品に出会い旅先で読んだのだ。
ひとことで言えば、わたしは村上春樹氏のエッセイを旅先でなぞりながら(お酒を頂きながら)の読書旅をしたのだ。アイラ島ではなく真夏の京都で。
春樹氏の持つ、文体の魔力に一気にやられてしまったのだ。
村上春樹氏がシングルモルトを好んで飲むのは言葉しかない世界で生きるために「自分をほどくため」に飲むのだ語る。また、こんな文章が。
「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」村上春樹・著
~「もし僕らのことばがウイスキーであったなら、もちろんこれほど苦労することもなかった」はずだ。
ぼくは黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って靜かに喉に送りこむ、それだけですんだはずだ。
とてもシンプルで、とても親密で、とても性格だ。
しかし、残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何か別の素面(しらふ)のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な時間に、僕らのことばはほんとうにウイスキーになることがある~文中から
~真夏の京都。
ビールは喉に染みわたるも体に素通りしていく水のようなものだ。
しかし、ウイスキーは喉をある意味こじ開け、体の隅々にまで浸透し行き渡る熱を楽しむ飲み物なのだ~
ビールとウイスキーの喉ごしの違いを村上春樹風文体で書いてみた・笑
そして上の文章が、村上氏の書く文章から読みとった感覚だった。
自分流に解釈し、飲み込むことで、そこはかとなく流れる、わずかな幸福の時間を過ごせた。まるで文体がここまで、わたし達を連れてきてくれたような気分。
書きたいことよりも、己の文体=伝わる力を最優先する文章。やはり天才的な書き手だ。
村上春樹氏の作品すべてが、こうも読みやすいものばかりではないことは、世間で多くのハルキストが語れるであろう。
どんな長編小説でもプロットを立てずに一気にどんどん書き、推敲に推敲を重ねる独自のスタイル。文章のリズムが悪い場合は、わざわざ英語で執筆し、それを翻訳する手間を使い、まったく別ものを生み出す。
しかし、わたしのようなハルキストではない、普通の人間であっても、氏の書く豊潤な文章に酔いしれることができた。
すべてが文体に始まり、文体に帰着していることが体でわかったのだ。
それは、氏の持つ緻密な文体構築戦略にハマれるかどうかが勝負だったのかも・笑
「たましひの 叫びにも似た 法師蝉」 清流
魂を、呼んで啼いているのかツクツク法師、文章もそうした心の叫びが滲み出てて、そして味となり表現形式となり文体となる。言わばその人自身の個性的表現スタイルだろう。
つくつく法師、誌的よね。